12月27日放送のチコちゃんに叱られる!で
なぜ街路樹にイチョウが多い?
という質問がありました。
チコちゃんに叱られる!なぜ街路樹にイチョウが多い?
なぜ街路樹にイチョウが多い?
答えは、火に強い木だから
詳しく教えてくださるのは
造園や街の景観について研究している
福井県立大学 学長
進士 五十八 先生(しんじ いそや)
- イチョウは他の木と比べて葉っぱが厚く水分がたっぷり入っているそうです。
- だからとても火事に強いそうです。
- 実際に、他の木の葉っぱと燃えやすさを比べてみました。
- ハナミズキ、ケヤキ、松、クスニキ、桜とどれと比べてもイチョウは燃えにくいことがわかりました。
- また、イチョウは葉だけでなく、幹も他の木に比べて多く水分を多く含んでいるため木全体が燃えにくく火事に強い木だそうです。
- 今では街路樹といえばイチョウが多いですが…
- 実は最初は違っていたそうです。
- そもそも、東京で街路樹を植え始めたのは明治の初めだそうです。
- 都市の近代化を目指していた日本政府が、ヨーロッパなどの町を参考に街路樹として銀座に桜、松、柳を植えましたが土が合わなかったり、手入れが上手くいかなかったりで、なかなか育たなかったそうです。
- 街路樹も見た目の美しさだけを求めていた風潮のなか、違う考えを持っていたのが長岡安平(ながおか やすへい)だそうです。
- 東京の芝公園をはじめ札幌の円山公園など日本中の公園の設計案作りや整備に関わったそうです。
- 後の近代公園の先駆者と評価される人物ですが…当時は東京市の一公務員だったそうです。
- そんな長岡さんが街路樹にイチョウを植えることを提唱したそうです。
- しかし、このころの日本は日清・日露戦争など軍にかかる予算を最優先にしていたそうです。
- そんな中で、街路樹の植え替えに莫大な予算がかかるとして一公務員であった長岡さんの意見など聞こうとしなかったそうです。
- 長岡さんはたった一人、防災面で街路樹の重要性を説いてまわったそうです。
- そして、ついに農商務省林業試験所 所長や新宿御苑 苑長などの力を借りて計画書を作成に至ったそうです。
- 1907(明治40)年 計画書の申請が通ったそうです。
- しかし、樹木の名前を見てみると…そこには公孫樹(イチョウ)だけでなく、篠懸木(スズカケノキ)、百合木(ユリノキ)、梧桐(アオギリ)、槐(エンジュ)、七葉樹(トチノキ)、三角楓(トウカエデ)、水木(ミズキ)、梣(トネリコ)、赤芽柏(アカメガシワ)外来種を含めた10種類書かれていたそうです。
- このころは海外のものを取り入れる良しとする風潮があったそうです。
- それゆえ、イチョウなどの在来種をという長岡さんの案に反し外来種が多く採用されてしまったそうです。
- そんな中、長岡さんは現在の東京・大久保や野方周辺に苗圃(びょうほ)(苗木を育てる畑)を作り、いつ街路樹に採用されるかもわからないイチョウの苗木を育てていたそうです。
- そして、長岡さんが恐れていたことがおこったそうです。
- 1923(大正12)年9月 関東大震災です。
- 東京だけで死者6万5,902人、16万戸以上の家屋が火災で焼失
- 東京の6割以上の街路樹が焼失したそうです。
- しかし、そんな中イチョウの木の多くが燃え残り炎症を防いだ事例も多く見られたそうです。
- 東京・千代田区 大手町に関東大震災を生き抜いたイチョウが現在も残っているそうです。(震災イチョウ)
- イチョウをみると白くなっている部分があるそうですが、当時焼けてしまった跡だそうです。
- 震災後の調査でイチョウが火に強いことがわかり東京はその後、新たに植える街路樹の多くをイチョウすることにしたそうです。
- しかし、長岡さんは多くの街路樹がイチョウとして植えられるのを見ることなく、この世を去ったそうです。
- 1925(大正14)年 享年83歳だったそうです。
- 長岡さんがたくさんのイチョウ育てておいてくれたので、関東大震災の復興事業もスムーズに進んだそうです。
- 今、日本で街路樹といえばイチョウ、長岡安平さんの思いがあったからだそうです。
- 長岡さんの思いが全国に広がり大坂・御堂筋、東京・神宮外苑、秋には黄金色下イチョウ並木を楽しむことができるようになったそうです。
チコちゃんに叱られる!なぜ街路樹にイチョウが多い? まとめ
今回は、チコちゃんに叱られる!なぜ街路樹にイチョウが多い?
について情報発信させていただきました。