9月22日放送のチコちゃんに叱られる!で
秋葉原がオタクの街になったのはなぜ?
という質問がありました。
チコちゃんに叱られる!秋葉原がオタクの街になったのはなぜ?
秋葉原がオタクの街になったのはなぜ?
答えは、GHQのおかげ
詳しく教えてくださるのは
サブカルチャーを中心に現代日本の文化を研究する
東京・明治大学 米沢嘉博記念図書館 まんがとサブカルチャー
明治大学 国際日本学部 准教授
森川 嘉一郎 先生(もりかわ かいちろう)
- まず 終戦直後の秋葉原の周辺一帯は空襲で焼け野原の状態だったんですね。
- そこから復興していく中で やがて現在のようなオタクの街になっていく。
- 最初のキッカケが起こるんですね。
- 終戦後 秋葉原近く
- 神田周辺の道路には近くにあった電気工業専門学校という
- 工学系学校の生徒向けに
- 真空管などのラジオ部品を売る数多くの露店がならんでいました。
- 戦争が終わった直後だと ラジオのメーカーの工場が破壊されてしまって…
- 完成品の状態で出荷することがなかなかできなかできない状態が続いた。
- ただ ラジオってのは当時 少ない娯楽の一つで
- だから技術のある人だと 部品を買い集めて
- なんと自分で作ってしまっていたわけなんですね。
- こうして 神田にはラジオ部品を取り扱う専門性の高い露店が増えていきます。
- そんな中 1949(昭和24年)に戦後 日本の占領政策に当たっていたGHQが露店撤廃令を出すんですね。
- 露店撤廃令
- GHQが主要道路の拡大や整備などを目的として出した この政策により
- 神田の道路沿いにあった露店も立ち退きを余儀なくされたのです。
- しかし そうすると多くの人たちが生活の危機に直面してしまうので
- 露天商の側からGHQに直談判しに行ったんですね。
- 交渉の結果 露天商たちには商売のできる代わりの場所が提供されることに。
- このときラジオ部品の露天商たちにたまたま提供されたのが…
- その当時 空いていた秋葉原駅の高架下などのスペースだったんです。
- こうしてGHQの政策により ラジオ部品を取り扱う露店が現在でも残っている秋葉原駅の高架下などのスペースに集中。
- ラジオ部品店を中心に秋葉原は専門性の高い商品を取り扱う電気街となったのです。
- 当時の秋葉原に詳しい 方によると
ここから詳しく教えてくださるのは
秋葉原観光推進協会 理事
松波 道廣 先生(まつなみ みちひろ)
- 1950年代に入ると徐々に大手メーカーの経営が再建したことで…
- 色々な家電製品が生産できるようになります。
- この頃から秋葉原にあった電気店は一般客向けに家電製品を販売するか
- 今までとおり技術者やマニア向けに部品を販売し続けるかの2つに分かれていきます。
- そして この家電製品を売るようになった店舗が…
- その後の家電ブームをけん引していきます。
- こうして 1960年代になると秋葉原は みなさん ご存じ 家電の街へと発展。
- 高度経済成長により 生活が豊かになるなか 表通りの家電販売店は大いに賑わいます。
- しかし 秋葉原のすごいところは このように家電を求める家族が大量に訪れていた時代でも
- 裏通りにはマニアックなお店が残っていたことなんです。
- やがて 1973(昭和48)年のオイルショックから始まる経済不況により
- 徐々に家電の売れ行きが落ち始めたころ 裏通りのお店では ある物が売れ始めます。
- それが パソコンなんです。
- 当時のパソコンは マウスもなく 今と比べると使うのに非常に専門的な知識が必要な…
- まさにマニアックな商品でした。
- しかし 秋葉原では このパソコンが売れたんです。
- 家電の流行に流されずマニアックな商品を売り続けた裏通りのお店と…
- それを買いに来る おなじくマニアックなお客…
- 長年に渡って気づき上げてきた 両社の関係性により…
- 秋葉原はパソコンが売れる街になったんです。
- さらに90年代初めのバブル崩壊をキッカケに 表通りの家電販売店が閉店していくと
- 入れ替わるように 大型パソコン専門店がオープン。
- これは 裏通りの店舗が育んできたマニアックなパソコン文化が…
- ついに秋葉原の顔になった瞬間と言えると思います。
- こうして パソコン文化は秋葉原の顔にまで成長。
- このパソコンこそが秋葉原をオタクの街に変えるキッカケとなった商品なのです。
- 当時のパソコンユーザーの中には…
- よりハイスペックなパソコンを使ってゲームをする人が多かったんです。
- そういう意味では パソコン好きとアニメオタクには…
- 自分の好きなものを追求するこだわりの強さという共通点はあったのかと思います。
ここからは
森川先生が詳しく教えてくださります
- さらに 1980年代のパソコン雑誌には表紙に目立つようにアニメのキャラクターが掲載されています。
- そして 雑誌の中央ページに表紙に関する記事 パソコンのプログラムが掲載されていました。
- このプログラムを全部キーボードで打ち込むことによって…
- 表紙のアニメキャラをパソコンモニターの画面に表示できる記事なんです。
- こうした雑誌の企画などによってパソコン趣味とアニメ趣味を合体させる形でオタク文化っていうのが発展していくことになるんですね。
- このころから アニメ調のキャラクターを売りにしたパソコンゲームも数多く登場。
- こうしたゲームは ある意味 パソコン趣味とアニメ趣味が合体した結晶のようなものですね。
- 秋葉原が家電の街からパソコン好きが集まる街になったことで
- 結果的にアニメグッズに対する需要も高まっていきました。
- そのことをいち早く察知し渋谷から秋葉原にフィギア専門店を移転した…
ここから詳しく教えてくださるのは
日本で一番有名なフィギアの会社 海洋堂
株式会社海洋堂 代表取締役社長
宮脇 修一 先生(みやわき しゅういち)
- 秋葉原でパソコンがブームになって ワッと盛り上がっていると…
- ちょうど我々も同じようなタイミングでパソコンゲームから派生した美少女との恋愛アニメーションのゲームフィギアも人気があって
- それによってですね 秋葉原という街 電脳の街がすごくフィギアとか
- そういったものの関りが深まってきたと感じたんですね。
- 宮脇さんのあとに続き 多くのアニメグッズ専門店が秋葉原にぞくぞくと進出。
- こうしてオタク文化は秋葉原の主役になったのです。
- GHQの露店撤廃令によって集まったラジオ部品店から秋葉原の歴史が始まり
- 家電ブームによって多くの人を集め その後 パソコン文化が開花
- そのパソコンが呼び水となって…
- 秋葉原はアニメフィギアがならぶオタク文化の街へと変貌しました。
- ところで戦後数十年の間に ここまで目まぐるしく街の顔が変化できたのはなぜなのでしょうか?
- 秋葉原の表通りは渋谷とか池袋の駅前にあるような巨大デパートが少ないんですね。
- そして土地の区画が小間切れになっていて 小規模でマイナーなお店が表通りとか駅前に並びやすかった訳なんですね。
- 秋葉原の表通りや駅前には小さな建物が多く マニアックで小規模な店舗が手軽に出店しやすかったのです。
- この特徴によって秋葉原は街の顔が次々と入れ代わっていく 新陳代謝が激しい街になりやすかったというふうに考えられます。
- このようにマニアックな文化が根付きやすい特徴もあってか…
- 常に時代の先端を走り続けてきた秋葉原。
- この先 いったいどんな街になっていくのか それはまた別のお話し。
- みなさん 今ではオタクという言葉を まぁ普通に使うと思うんですけども…
- この言葉がいつ生まれたかというのはご存じですか?
- 1980年代 当時アニメや漫画など マニアックな趣味を持つ人々が…
- お互いのことを「お宅さぁ」って呼び合っていたという。
- そこから マニアックな趣味を持つ人々のことを「おたく」と呼ぶようになったとも言われています。
チコちゃんに叱られる!秋葉原がオタクの街になったのはなぜ? まとめ
今回は チコちゃんに叱られる!秋葉原がオタクの街になったのはなぜ?
について情報発信させていただきました。