10月23日放送のチコちゃんに叱られる!で
なぜ給食に揚げパンが出るようになった?
という質問がありました。
チコちゃんに叱られる!なぜ給食に揚げパンが出るようになった?
なぜ給食に揚げパンが出るようになった?
答えは、欠席した子どもにおいしいパンを届けるため
詳しく教えてくださるのは
給食の歴史について調査した
東京・大田区 給食の栄養士
木崎 雅紀子 先生(きざき まきこ)
- 揚げパンは給食の人気メニューにもかかわらず…
- 長い間 その発祥については知られていませんでした。
- しかし 2004年から2005年に給食の歴史を調査したときに…
- 揚げパンは 大田区の小学校で誕生した可能性が高いっていうことが判ったんです。
- 日本各地の古い献立表を調べたところ…
- 揚げパンが登場するのは 確認できた限り 昭和30年代半ば以降でした。
- しかし 東京の大田区には昭和29年の段階で揚げパンが給食に出されていた記録が残っていたのです。
- さらに調査した結果 東京・大田区の嶺町小学校で給食の調理師をしていた篠原常吉さんが 昭和27年頃に考え出したのではという結論になりました。
- 20世紀が終わりに近づいた1998年 給食を特集した1冊の本が出版されました。
- そして 1人の女性が この本を目にしたことによって 給食の揚げパンが…
- いつ どのようにして生まれたのか?
- その誕生の歴史が 紐解かれていきました。
- その時 歴史がチコった。
- 今日は給食の揚げパンが誕生した瞬間に迫ります。
- 今日の主役は 揚げパンにいたしました。
- これが 大変な人気でありまして…
- 給食のメニューの中で何が一番好きですか?
- というアンケートは世代を超えて揚げパンが断然トップだったのであります。
- しかし 何故か この揚げパンが いつ どういう 経緯で作られたか?
- ということについては長い間わかりませんでした。
- 時は昭和27(1952)年の冬の ある日ということになりました。
- ある日というのは その日 その時 というのが どうしても特定できなかったからです。
- しかし 冬のある日の 冬のというのは あとで追々わかってくることになっております。
- まずは 日本の給食の歴史をたどりながら まずは ご紹介していきたいと思います。
- 明治22(1889)年 山形県で始まったと言われる日本の学校給食。
- 昭和16(1941)年に戦争による食糧不足のため一旦中止になりますが…
- 終戦後の昭和22(1947)年に学校給食が再開します。
- この当時の献立は 援助物資として送られてきた
- トマトの缶詰などを使ったスープと脱脂粉乳でした。
- そして 昭和25(1950)年 主食・おかず・脱脂粉乳が提供される完全給食がスタート。
- この時 給食の主食の座に登場したのがコッペパンでした。
- コッペパン・脱脂粉乳・みそ汁
- これが 当時の定番の献立でした。
- まだまだ贅沢は言えなかった この時代。
- たまに出る クジラの竜田揚げはご馳走でした。
- 人気抜群の揚げパンは 大変悲しい運命を背負っておりました。
- つまり 自分の出生の経緯を気にもされずに ず~っと長い時間を過ごしてきた。
- それがですね 20世紀も終わりになった頃…
- この歴史に わずかな明かりが灯ったんですね。
- 昭和51(1976)年 学校給食に大きな転機が訪れました。
- 米飯給食の導入です。
- そして20世紀も終わりに近づいた1998年 なつかしい給食を特集した本が出版されました。
- その揚げパンのルーツには こう書かれています。
揚げパンがいつどこで、
どのようにして生まれたかは、
ついにわからなかった。
もし揚げパンの考案者を知っていたら、
ぜひ、本誌に知らせてほしい。
- 実は この一説のおかげで ようやく揚げパンの誕生に明かりが灯ったのです。
- この本を見て過去の記憶が蘇った読者がいました。
- 村岡玲子さん(むらおか れいこ)当時66歳。
- 玲子さんが実際に出版社に出した手紙の文面です。
給食の調理師をしていた父が、美味しい物が出来たといって
わら半紙に包んだ揚げパンを
一つ持って帰ってきたのを思い出した
- 玲子さんの父 篠原常吉さん(しのはら つねきち)は戦前は西洋レストランのコックさん。
- 昔かたぎの人で 家の内外をハッキリ分けていました。
- 父が家の台所にいた記憶は ほとんどなかったといいます。
- まして外からお土産の食べ物を持ち帰ってきたのは その時が初めて。
- だから このことが玲子さんには とても印象に残っていたのです。
- 常吉さんは 既に他界していたため…
- 玲子さんは かつて父と働いていた方を探しました。
- 養護教諭だった石渡ヒロさん。
- でも ヒロさんはご高齢で寝たきりのため…
- この日は 娘の翠さん(みどり)が応対してくださいました。
- 玲子さんは尋ねた理由を話しました。
- すると…
- 「揚げパンを考えたのは あなたのお父さんですよ」
- 「私 見てましたから」
- 揚げパンを考えだしたのは やっぱりお父さんだったんだと。
- 玲子さんは自分の記憶の大切さに感激するわけですけども…
- 同時に「そうですよ」と言ってくれた翠さんがですね「私 見てましたから」という言葉が気になりました。
- その当時 彼女は小学生だったはずですが。
- 「見てましたから」とはいったいどういう意味なのか?
- 謎解きを含めて さあ みなさん 今日のその時ですが…
- 時は昭和27(1952)年 冬のある日 場所は東京大田区の嶺町小学校。
- 当時小学3年生だった翠さん 母親のヒロさんは養護教諭として同じ学校で働いていました。
- だから昼休みや放課後は母親のところによく行っていたのです。
- この日 母親と一緒に給食室に向かうと…
- 翠さんの目に飛び込んできたのはコッペパンの山でした。
- 実は この年の冬 流行性の風邪によって多くの児童が欠席したため…
- 給食のコッペパンが大量に残っていたのです。
- この欠席した児童のパンも近所の子が放課後に届けていました。
- とはいえ このころのコッペパンは時間が経つと固くパサパサになる。
- 正直 美味しいといえるものではありませんでした。
- そこで給食室では病気で欠席している子供たちのために少しでも美味しくできないか?と考えていたのです。
- すると一人のおじさんが 「揚げてみようか」と言い出します。
- 大きな鍋の中でコッペパンは次々と揚げられキツネ色になったパンにはたっぷりの砂糖がまぶされました。
- これが小学生だった翠さんが見た揚げパンが揚げられた その時でした。
- このパンを揚げたおじさんこそ 篠原常吉さん 玲子さんのお父さんでした。
- 揚げパンが揚がるところを見ていた翠さんにお話を伺うことができました。
- 「その時には鍋の中にバサッと入れてバサッと揚げて すごいなぁと思って眺めてたんです 食べると直ぐに甘いでしょ美味しいと思いましたね」
- しかし当時は何のために作ったのかはわからず 後にお母さんから その理由を聞かされたといいます。
- 「休んだお子さんのパンが硬くなってしまうので それをどうっやたら美味しくなるか?ていうことで篠原さんが「じゃあ揚げてみたら」というアイデアをお出しになって 休んでいる子供たちの家庭に届けるために最初作ったと言っておりました」
- この日 揚げられたパンは1つ1つわら半紙に包まれ休んでいる児童たちのもとに届けられました。
- そして篠原さんは 残ったパンを1つだけ家に持ち帰ったんでしょ。
- これが娘の玲子さんの記憶に残っていた揚げパンでした。
- この話の大きなきもんの1つは この揚げパンを最初に食べたのが…
- 当時はやっていた風邪で学校を休ませざる負えなかった児童生徒だったということです。
- 病癒えた その生徒は学校に行って なんだか甘い美味しいものがあったぞということを報告するんですね。
- それがどんどん広がってクラスが大盛り上がりになって それが隣のクラスにも その隣のクラスにも広がる
- 学年中にも広がる 学校中にも広がるということで先生が動き学校が動いたんですね。
- そして それ以後 そのパンが揚げパンという名前で学校の給食の正式なメニューになるのであります。
- 給食の揚げパンを考えた篠原さんは その後も子供たちが喜ぶ給食作りを続けます。
- 給食のコンクールでも1位に輝きました。
- 記録には何も残っていませんが 篠原さんの功績によって揚げパンは味のバリエーションも増やしながら全国の人気メニューになっていくのです。
- 多くの日本人の記憶に残る この味は 令和の時代になった今 給食の献立に残り続けています。
チコちゃんに叱られる!なぜ給食に揚げパンが出るようになった? まとめ
今回は チコちゃんに叱られる!なぜ給食に揚げパンが出るようになった?
について情報発信させていただきました。