11月15日放送のチコちゃんに叱られる!で
時代劇の「時代」ってなに?
という質問がありました。
なるほどという答えが気になったので調べてみました。
チコちゃんに叱られる!時代劇の「時代」ってなに?
時代劇の「時代」ってなに?
答えは、新しい時代を切り開く という意味の「時代」
詳しく教えてくださるのは
時代劇研究家
春日 太一 先生(かすが たいち)
- 時代劇というと古くさいものだって思われがちなんですけども実はその正反対で新しい表現という位置づけで誕生した言葉です。
- そもそも日本で初めて映画が撮影されたのは…
- 1899(明治32)年 舞台演劇をそのまま映すかたちで始まりました。
- 当初、日本映画は大きく2つのジャンルに分かれていました。
- 1つは旧劇映画 歌舞伎や講談などの物語をあつかったもの。
- もう1つは新劇映画 海外作品や当時の現代劇・人気文学作品をあつかっていました。
- その後、新劇映画は欧米映画の影響を受けカメラワークやカット割りなど映画ならではの撮影のしかたを取り入れ進化。
- しかし、一方の旧劇映画は昔ながらの作り方から抜け出せず時代遅れで古くさいと批判され始めていました。
- そんな状況を脱却しようとする動きが起こります。
- これを主導したのが 野村芳亭 監督と脚本家の伊藤大輔さんでした。
- 監督 野村芳亭は、当時の松竹蒲田撮影所の所長であり松竹で初めてヒットになった新劇映画を手掛けた監督。
- 脚本家 伊藤大輔は、後に監督としても活躍し時代劇の父とも呼ばれた人物でした。
- 松竹蒲田撮影所を舞台に野村と伊藤による旧劇映画革命が巻き起こるのです。
- 1920(大正9)年ごろ 旧劇映画上映後の映画館で…
- 監督の野村芳亭と脚本家の伊藤大輔が旧劇映画を見た後で
- 野村芳亭「つまらん、実につまらん。
旧劇映画はいつまで経っても舞台の丸写しじゃないか。」- 伊藤大輔「そうだ、ここは所長、自ら撮ったらどうですか。
新劇の監督が旧劇映画を新劇映画っぽく撮ったら
いいんじゃないですか。」- 野村芳亭「ひと暴れして、今まで誰もみたことのない
新しい旧劇映画を撮ってやろうか。」
- なんて会話があったか定かではありませんが…
- こうして二人の新しい旧劇映画作りがスタートしたのです。
- まず、二人がこだわったのは、カット割り。
- 当時の映画は音声のない無声映画。
- そのため物語の進行やセリフはすべて弁士という語り手が映像に合わせて行っていました。
- 旧劇映画では弁士が語りやすいように広いサイズでカメラを固定しワンカットを長く撮影していました。
- が、二人はそんな旧劇の慣例を打ち破ろうとしたのです。
- 野村たちは、細かくカットを割り、撮り方を工夫。
- そしてセリフは字幕にしました。
- さらに野村たちがこだわったのがキャスティング。
- 女性役には、歌舞伎役者の女形を。
- 旧劇映画は歌舞伎など古くから続く舞台演劇の伝統のまま。
- 女役は女形、つまり男性が演じていました。
- しかし、二人は旧劇映画の慣例を破り女役に女性を起用。
- 歌舞伎出身の役者たちの反発があったかどうかは定かではありませんが…
- 野村の映画の出演者には新劇出身の役者が名を連ねました。
- こうして1922(大正11)年 旧劇あらため新時代劇「清水の次郎長」が公開。
- 細かいカット割りに弁士たちの呼吸が合わず奇妙な間ができたり、新劇の役者が演じたりと…
- これまでの旧劇と違うことに賛否ありましたが「清水の次郎長」はセンセーショナルな反響を呼んだのです。
- さらに翌年、野村と伊藤は「女と海賊」を制作
- 以後、新時代劇、転じて時代劇が次々と作られていくようになりました。
- 旧劇映画が歌舞伎などの物語をなぞっただけだったのかはちがい時代劇作品は作られた時代、時代の社会的、現代的テーマを盛り込み支持を得ていくのです。
- たとえば1928(昭和3)年公開の「浪人街」
- 当時は国家権力による厳しい規制があった時代
- 映画の中で圧倒的権力者である武士に対し必死に立ち向かう浪人たちの姿を自分たちに重ね合わせ観客たちは拍手喝采でした。
- こうして時代劇は大正から昭和にかけて日本映画・ドラマを代表するジャンルとして確立。
- 多くのスターと名作を生んでいったのです。
- 時代劇というのは、ただの過去の再現劇ではないんです。
- 新しい表現であり、それから現代的なテーマでありそういった物を込めてこそ初めて時代劇になるといえるわけです。
- 野村芳亭と伊藤大輔の作った第一歩が、その新しい表現の時代を切り開いていったということがいえると思います。
チコちゃんに叱られる!時代劇の「時代」ってなに? まとめ
今回は、チコちゃんに叱られる!時代劇の「時代」ってなに?
について情報発信させていただきました。