10月12日放送のチコちゃんに叱られる!で
そもそも運動会をやるようになったのはなぜ?
という質問がありました。
チコちゃんに叱られる!そもそも運動会をやるようになったのはなぜ?
そもそも運動会をやるようになったのはなぜ?
答えは、兵隊さんがグレないためだった
詳しく教えてくださるのは
運動会の歴史を研究して60年
愛知・豊田市 中京大学 名誉教授
木村 吉次 先生(きむら きちじ)
- 1870(明治3)年 創立した海軍士官の養成所である海軍兵学寮。
- そこで行われた競闘遊戯(きょうとうゆうぎ)が学校行事としての日本初の運動会だそうです。
- 当時の兵学寮の授業カリキュラムは教室で座って学ぶ座学が中心だったそうです。
- 当時は日本にはスポーツという概念がほぼなく 体育も馬術や武道だけだったそうです。
- 当時の顧問団団長だったイギリス海軍のアーチボルド・ルシアス・ダグラス。
- イギリス海軍顧問団の団長で 日本に滞在している期間中に日本における海軍兵学校教育の基礎を固めたとされている人物だそうです。
- 彼は座学だけで気分がうつうつしてくると よくない遊びに走るかもしれないと心配していたそうです。
- そこでダグラス団長は 学生たちがグレないように運動することを推奨したそうです。
- そして開催されたのが日本初の運動会たる競闘遊戯だそうです。
- 1874(明治7)年 第一回 競闘遊戯プログラム。
- 「すずめのすだち」は140m走のことだそうです。
- 元々この競技は英語で考案されたそうです。
- 英語版のプログラムではこのようになります。
- 「Flat Race for Students under 12 years Dist. 150 Yards.」
- 12歳以下の生徒が参加する150ヤード(140m)走。
- イギリス人教師たちがこのプログラムを作ったのでどう翻訳したらいいのか?
- 当時140m走という言い方はなかったそうです。
- 英語表記をどんな日本語に置き換えるか。
- そこで ただ直訳するよりも面白い名前をつよるように工夫を凝らすことにしたそうです。
- そうして生まれたのが「すずめのすだち」だそうです。
- 12歳以下の若い学生(兵学寮で一番低学年のクラス)が参加することから雀の巣立ちを連想さたそうです。
- ふるだぬきのつぶてうち → 遠投
- こもちざるのかけぬけ → おんぶ競争
- つばめのとびならい → 270m走
- とんぼのかざがへり → 棒高跳び(Pole Jump.)
- とびうをのなみきり → 幅跳び(Long Jump.)
- さぎのうおふみ → 三段跳び(Hop,Step,& Jump.)
- あきのむくどり → 550m走
- あけのからす → 270m障害物競走
- ぼらのあみごえ → 高跳び
- てふのはなおひ → 二人三脚
- かごのにげづる → 競歩
- ばしゃのはなれうま → 目隠し競争
- わしのいなとり → 豚追い競争
- うさぎのつきみ → 立ち三段跳び
- さるのももとり → 卵拾い競争
- すまのしほくみ → 水桶運び競争
- もろこしのしかおひ → 豚追い競争(わしのいなとりで豚が捕まらなかった場合)などなど。
- この競闘遊戯は大盛況のうちに閉幕したそうです。
- これに目を付けたのが初代文部大臣 森有礼(もりありのり)だそうです。
- 一橋大学の創設者で明治六大学教育家に数えられる人だそうです。
- 森有礼は全国の学校に運動会を義務付けることを決定したそうです。
- そのときに導入されたのが兵式体操だそうです。
- 兵式体操とは軍隊式の集団訓練を通して愛国の士気を高めることを目的とした体操だそうです。
- この体操を通して規律や秩序を守るような人を育てる狙いがあったそうです。
- 現在も残る 気を付け・前ならえ・全体すすめ などはこの兵式体操の名残りだそうです。
- 昭和に入って日本が戦争に突き進むと運動会はその軍事色を強めていったそうです。
- 爆弾輸送や爆弾三勇士など より戦争をイメージした種目がおこなわれていたそうです。
- 戦争が終わり平和な時代が訪れると軍事色の濃い種目や訓練的な種目は消滅したそうです。
- もともとは兵隊さんのための運動会でしたが時代に合わせて変化してきたそうです。
- 前述のユニークな種目名についてですが 実は2年後に開催された第2回競闘遊戯では すずめのすだち つばめのとびならいは平がけ ふるだぬきのつぶてうちはまり投げと割と普通な名称に改められてしまったそうです。
- なかにはこもちざるのかけぬけのように廃止された競技もあったそうです。
おまけ「位置について よーい」は誰が考えた?
チコちゃんから、スタートの合図 「位置について よーい」は誰が決めたか知ってる?
それはね、山田さんが決めたの。
詳しく教えてくださるのは
スターター補助役員として東京オリンピックにも参加スターターの生き字引的存在
東京・三鷹市 全国陸上競技スターター研究会 代表
野崎 忠信 先生(のざき ただのぶ)
- 「位置について よーい」になる前はスタートの掛け声は方言を含めてバラバラだったそうです。
- どんなスタートの合図があったのか?
- 188(明治16)年 開成学校運動会では「いいか ひい ふう みい」で傘を振り下ろすスタイルだったそうです。
- タイミングが合わせづらいということで浸透しなかったそうです。
- 1913(大正2)年 第1回 日本陸上競技選手権大会では「支度して、用意」でピストルを撃つ…
- この掛け声も…何かしっくりこない…ということ で浸透しなかったそうです。
- この他にも…
- 「腰を上げて、待て!」でピストルを撃つ…
- 「ガッテン承知!」でピストルを撃つ…
- 「おんちゃなケツ上げぇ!」でピストルを撃つ…
- どれもイマイチ…
- そこで日本陸上競技連盟は 1927(昭和2)年にスタートの合図を一般公募したそうです。
- 一般公募して選ばれたのが「位置について よーい」という言葉だったそうです。
- 「位置について よーい」の生みの親は?
- 東京・神田に住んでいた 山田秀夫さん(当時19歳)だそうです。
- ということで息子さんの山田 和夫さんにお話を伺いました。
- お父さんが考えた「位置について よーい」を運動会で聞いてどう思っていましたか?
- 山田さん「私の子どもの頃は何も言っていませんでした。私が20歳過ぎてぐらいから「実は…」みたいな。えっ!?と思いました。私は小学校 中学校のときは普通に「位置について よーい」でやってましたね。知らずに…」
- 実は「位置について よーい」が選ばれたときの新聞記事の記事の中の名前が山田敏夫さんとなっています。
- スタートの掛け声の応募は一人につき一つと決まっていたそうです。
- しかし 山田秀夫さんは2つ応募したかったので 弟の山田敏夫さんの名前を使って2つ応募したそうです。
- 結果 山田敏夫さんの名前で応募した「位置について よーい」が選ばれ新聞には山田秀夫さん ではなく山田敏夫さんの名前が印刷されたそうです。
- 山田秀夫さんの名前で応募したのは「位置につけ よーい」だったそうです。
チコちゃんに叱られる!そもそも運動会をやるようになったのはなぜ? まとめ
今回は、チコちゃんに叱られる!そもそも運動会をやるようになったのはなぜ?
について情報発信させていただきました。