1月2日放送のチコちゃんに叱られる!で
なぜ年賀はがきにはお年玉くじが付いている?
という質問がありました。
チコちゃんに叱られる!なぜ年賀はがきにはお年玉くじが付いている?
なぜ年賀はがきにはお年玉くじが付いている?
答えは、戦後の日本を明るくするため
詳しく教えてくださるのは
以前「切手が左上に貼られているのはなぜ?」で理由を教えてくださった
郵政博物館 館長
藤本 栄助 先生(ふじもと えいすけ)
- 初めてお年玉付き年賀はがきが配達されたのは…
- 今から72年前の昭和25年のお正月だそうです
- この時に初めて郵便局で年賀状用のはがきが発売されたそうです
- 年始の挨拶を手紙で送る習慣は平安時代には貴族が行っていたとされ
- 江戸時代になると庶民の間にも広まったそうです
- 明治になり郵便制度が生まれると国が発行する官製はがきが誕生したそうです
- その手軽さからはがきでの年賀状のやり取りが習慣となり爆発的な人気になったそうです
- 明治32年には決められた日まで出せば元日に届く年賀郵便物特別取扱がスタートしたそうです
- そして昭和11年 人口およそ6,800万人に対し年賀状の取り扱い枚数は およそ8億5,000万枚にも上ったそうです
- しかし戦争が始まると年賀郵便は減り年賀郵便物特別取扱は停止になったそうです
- そして1945(昭和20)年終戦
- 戦争の傷もまだ癒えぬ昭和23年12月に年賀郵便は復活しましたが取り扱い枚数は…
- およそ6,900万枚
- ピーク時の12分の1以下に減ったそうです
- そんな時 民間人で画家の林 正治さんという方の発案で生まれたのがお年玉付き年賀はがきだそうです
- 画家・林 正治さん(はやし まさじ)
- お年玉付き年賀はがきは郵便とはまったく関係のない仕事をしていた一般の方が発案したものだったそうです
- そこには「年賀状を復活させて戦後の日本を少しでも明るくしたい」という林さんの熱意が込められていたそうです
- ここで始まるのが「NHKたぶんこうだったんじゃないか劇場 郵送り人(おくりびと)」
- 戦争によって焼け野原になった日本
- 人々は散り散りになり消息の分からない人がたくさんいたそうです
- ラジオからは…
- 「歩兵 第1763部隊 11中隊におられた田中さん 田中さんをご存じの方は日本放送協会の尋ね人の係へ ご連絡ください」
- このような尋ね人の放送が日々流れていたそうです
- 昭和24年6月 京都にいた 林 正治さんのもとに知人から郵便が届きました
- それは戦争のため生死もわからなかった知人からの郵便でした
- 年賀状もたくさん出しても家に届くのはほんのちょっとと、戦争前ほど郵便のやり取りが無くなっていたことを嘆いていたそうです
- そんなとき林さんがあることをヒラメいたそうです
- そこで林さんが向かったのは なじみの印刷屋さん
- 「みんなが欲しくなるような年賀はがきが作れないか?」と林さんは印刷屋さんにいいました
- 「干支でもすりましょうか?」と印刷屋さんがいうと「そうじゃない」と林さん
- そんなとき店の前を主婦が「田中さんのところミシン買ったんだって」「いいなぁ」と話しながら通りさって行くのを聞いた林さんは…
- 「そうだ!くじ引きだ」と林さん
- この当時のミシンの値段は およそ20,000円
- 平均月収8,000円の倍以上の値段で月賦で買う人がほとんどだったそうです
- 林さんはミシンがあたるかもしれないくじ引きが送られてきたらワクワクしないか
- みんなの欲しがりそうな物が当たるかもしれないくじ付きはがきを思い付いたそうです
- 林さんは はがきに付加価値を付ければ年賀状を送る人が増えると考え…
- さっそく そのアイデアを絵にまとめたそうです
- その名も「当たる年賀郵便」
- この時 林さんが勝手に考えた景品は…
- 特賞:現金50万円
- 現在の価値で およそ160万円だそうです
- 林さんはアイデアを持参して大阪郵政局に持ち込んだのですが話が付かなかったそうです
- そこで東京の郵政省への紹介状を書いてもらい上京した林さん
- 多くの人が年賀はがきを送れば互いの消息がつかめ 離れ離れになった人が再び繋がれる
- さらに2円の郵便料金1円の寄付金を付ければ生活に困窮した人が救われる
- 林さんは熱心に説得したのですが…
- 悪い案ではないが時期尚早ということで理解して欲しいと言われてしまいました
- 意気消沈してしまった林さんは 東京の友人と酒を酌み交わし思いのたけのをぶつけると
- まさかの奇跡が起こったそうです
- 友人が郵政省の事務次官と知り合いだというのです
- さそっく 林さんは友人の紹介で大野郵政事務次官のもとへ
- 林さんは なぜお年玉つき年賀はがきが必要か大野事務次官に説明したそうです
- 「おっしゃりたいことはわかりました 戦争が終わってから郵政事業は赤字続きなんです ですからやりましょう これは面白い」と大野事務次官
- 昭和24年 この年 かつて郵便を扱っていた逓信省が廃止され郵政省が独立したそうです
- そこで郵政事業の赤字解消が急務だったそうです
- 大野事務次官はお年玉くじが かつてドル箱だった年賀状を復活させる起爆剤になると考えたそうです
- ここからは一気に事が運び年内発売に向け動き始めたそうです
- 同時に林さんは 企業や商店 個人へ自家製の見本のはがきをくばり 売り上げを推定するアンケート調査までも自費でおこなったそうです
- 「林君 きみはどうしてそこまで熱心なんだね」と大野事務次官に問われ…
- 「実は昔 郵便に命を助けられたことがあるんです」と林さん
- 林さんは二十歳を過ぎたころ肺を患って山奥の療養所で長期療養していたそうです
- その時は命が危うい状態にもなったそうです
- そんな時に 唯一励みになったのが毎日届けられる大好きな女性からの恋文だったそうです
- 林さんは 毎日 郵便配達の音が聞こえてくる度に胸が躍ったそうです
- 林さんが療養している山奥に配達してくれる郵便配達員にも感謝したそうです
- 郵便は人と人をつないでくれる だから戦争で人がちりじりになった今こそ年賀はがきが届けばちょっとでもうれしくなるんじゃないかと思ったそうです
- 「で その恋文の女性は?」と大野事務次官が林さんに問うと…
- 「妻です」と林さんは答えました
- こうして昭和24年12月1日
- 初めてのお年玉付き年賀はがき1億8,000万枚が発売されたそうです
- ちなみに2円+1円の寄付金付きが1億5,000万枚・寄付金なしが3,000万枚だそうです
- 郵政省は 全国で一大キャンペーンを展開したそうです
- この時のお年玉くじの商品は…
- 特等 高級ミシン(18本)
- 1等 純羊毛服生地(360本)
- 2等 学童用本革グローブ(1,440本)
- 3等 学童用洋傘(3,600本)
- 4等 葉書入れ手箱(7,200本)
- 5等 便箋封筒組合せ(5万4,000本)
- 6等 記念切手(360万本)
- だったそうです
- 商品の魅力もあってかお年玉付き年賀はがきはほぼ完売したそうです
- 翌年は2倍以上の4億枚が発売されたそうです
- 林 正治さんの長男・みのるさんによると…
- 「予想通り売れなかったらちょっと取りやめになる危機感というのはあったですよ 事実としては家に年賀状の空のはがきがありましたからね そうとう無理して買ってたんだと思う 人と人をつなぐというのが基本のコンセプトだからお年玉付き年賀はがきを作っているときから声の郵便を考えだして…」
- 林さんは シベリアなどの外国に抑留されている人に家族の声を届けることができる「声の郵便」も発案したそうです
- これは郵便局に設置された録音室で家族のメッセージをレコードに録音し
- そのレコードを郵送するというものだったそうです
- 「思い付いたら物にしたいタイプで 父親は54個くらい特許を持ってるんですよ どれも物になってない 唯一物になったのが牛乳の栓抜き」とみのるさん
- この牛乳瓶のフタを安全に開けられる栓抜きも林さんの発明
- 戦後 焼野原になり人々が散り散りになった日本で一人の民間人のアイデアから生まれたお年玉付き年賀はがき
- 郵便は人と人をつないでくれると信じた林さんの熱意は令和になった今も受け継がれ今年も皆さんの元に届いています
チコちゃんに叱られる!なぜ年賀はがきにはお年玉くじが付いている? まとめ
今回は チコちゃんに叱られる!なぜ年賀はがきにはお年玉くじが付いている?
について情報発信させていただきました。